文:チキンハート
2020年の春に心臓の手術をうけた。
コロナ禍の初期であり、あの志村けんさんが亡くなったことで院内は騒然としていた。やがて地方の大学病院もコロナ患者の増加に備えて病床を確保する必要があったため、誰かが退院しても次の同病者が来ることはなくなり、しまいにはカーテンが開け放たれてがらんとした大きな6人部屋に独りぼっちで寝起きすることになった。
今でこそ手術記念日を忘れるくらいに元気になったが、当時は気を失うほどの痛みをあじわい、術後には脳出血により一時的に言葉が話せなくなる経験もした。
「二度と心臓の手術なんか受けるものか。」と強く決意し、丁寧な生活を続けて丸4年。今、改めて心臓の再手術を受けるべきかを思案している。
私は抗血液凝固剤を服用している。いわゆる「血液サラサラ」の薬であり血栓が出来にくくなるメリットもあるが、出血すると止まりにくいという難点もある。
最近私はある田舎町に引っ越してきた。4年前、心臓の手術をした私を会社は本社に異動させ、一時的な休息を与えてくれるという。ところがいざ出社してみると、休息どころではなく初めての業務の連続で、さながら毎日が千本ノックの猛特訓だった。
今にして思えば、その千本ノックのおかげでここまで回復することができたのだと感謝している。そして元気になるほどに言いたいことを言う厄介者に早く現場に帰れと言わんばかりの辞令がでた。その転勤前の精密検査で、微小な脳出血があちこちに起きていることが判明したのである。
大血管破裂のような致命的な出血ではないが、細い血管から染み出るような出血が起きているらしく、出血した周囲の脳組織に静かにダメージを与えるらしい。
例えば前頭葉に発生した出血は認知機能を害し、目の前にある物に対しても認知が出来ないため突然にぶつかる。また出血の部位と程度によっては自分のことさえもわからなくなるらしい。
問題は「どのくらいの衝撃を受けると血液が染み出るのか?」「どこをぶつけると出血が起こるのか?」「どうすれば出血がおこらないのか?」がわからないことである。
このため小走りでさえ、その衝撃で頭骨内に血液が溢れてしまうのではないかと恐ろしくなった。私は完全に委縮してしまい、日常の生活にも影響が出るようになったのだ。
脳出血のリスクさえなくなればどれほど自由に走り回れるのだろう。実際に認知機能が低下するリスクも回避できるだろう。
そのためには心臓の一部になった機械弁を再手術で生体弁に付け替える必要がある。
ただ、二度目の手術には相当なリスクもあるらしい。あちこち癒着した組織を引き剥がさなければならない。人工心肺にも制限時間があるのだ。たとえうまくいっても、弁の耐久性の問題から10~15年以内には再々手術が必要になるらしく、さらにリスクの高い三度目の手術が避けられなくなる。
時々、術後の入院生活を思いだす。明滅する機器、胸骨を割き押し広げたために軋んだろっ骨の痛み、霧に包まれたような視界の悪さと浮遊感、言葉が出なくなった瞬間の舌の筋肉の攣れた感触。
これから先、私の人生は長いのか長くないのかわからないが、できれば大好きな奥さんを近くに認めながらいつまでも楽しく暮らしたいのだ。
いつ起こるかわからない微小脳出血におびえながら縮こまって暮らしていくのは嫌だし、いつまでも怖れに耐えられるほど心臓に毛は生えていない。また二度と目が覚めないかも知れないリスクの高い再手術というのも気がひける。
最後には自分で決めるしかない。
お盆明けの脳外科の検査結果を聞いて決めようと思うが、簡単に決められる自信もない。
「さあ、どうしよう。」
「どうしよう。」
◆本コラムは、with Heartプロジェクトで開催したライティング講座を受講された方のコラムです
<この記事を書いた人>
当事者メンバー チキンハート