文:柴田 富美子
5人の孫がいる64歳の私は今、体育教師をしています。
まさに「おばあちゃん先生」だからこそできる高齢者を思いやる気持ちも育つ、体育が苦手な子も楽しい授業を心がけています。頼りない体育教師かもしれませんが、背伸びはしないでそのままの姿で生徒に接しています。
時々生徒が「先生も一緒に走ろう」と無茶を言ってきますが、そんな時は「救急車とAEDの準備をお願いしま~す。」と返すとみんなの笑顔があふれます。
『第1の人生』
幼い頃からおてんば娘でバレーボールに夢中だった中学・高校時代に体育教師をめざすようになりました。ただ体育大学への進学を決めた時、両親があなたの体はそんなに丈夫ではないと心配していたのを思い出します。親はすごい、
40年後の私が見えていたのかのようです。
親の心配をよそにずっとテニスやスキーなどスポーツ三昧の生活を送り、結婚。子育てをしながらママさんバレーと、このまま元気に人生を送るのだと信じて疑いませんでした。
そして『第2の人生』
61歳の時ただ脈が速いな、と思いながらもしんどいわけでもなく半年ほどが経ちました。
そして軽い気持ちで受診すると聴診器を当てたとたん先生の顔色が変わりました。病名は僧帽弁閉鎖不全症。
心肥大もありいつ心臓が止まってもおかしくない状態で緊急手術、術後は元の元気な体に戻れると喜んだのもつかの間、6カ月後にまさかの再発でした。
「なぜ?」が頭の中を巡り、目の前が真っ暗になりました。半年に2回も開胸手術をする気持ちにはとてもなれません。服薬と経過観察をしながら様子を見ることになっても激しい運動は禁止、そして心不全は確実に進んでいきました。
地下鉄の階段をみんなと一緒に昇ることができなくなり再手術を決意、7時間に及ぶ人工弁置換術の再手術は成功したものの今度は心がついていきません。夜は人工弁のコンコンという機械音が体中に響いて眠れず、動悸や不整脈が続いて死が頭から離れない毎日でした。
もう元の体には戻れない・・生きているのが辛かった。でもドクターや理学療法士さんが、会うたびに弱音を吐き「助けて」と言う私に寄り添ってくれました。「また来週」のおかげで1週間どうにか生きている状態で、人生のどん底をみたようでした。
『第3の人生』
そんなある日、時々遊びに来てくれる孫たちとお風呂に入っていると手術の傷跡を見て言いました。「これなに?」私が「手術の跡だよ」と言うと、「ふぅばぁばの金メダルだね。」何を思ってかわかりませんが、「金メダル」・・そうか、どん底から這い上がろうとしている私に6歳の孫が金メダルをくれたんだと、嬉しかった。その時「元気になりたい」と心から思い涙が溢れました。
そして少しずつ笑顔が増え何かに挑戦したい、社会復帰したいと思えるようになっていきました。また、再発は遺伝性の病気のためとわかって納得した今年3月、体育講師の話をもらいました。現場はブランクもあり、ましてやこの体・・悩みました。
その時ドクターが「ちょっと気になると受診したから救われた命、これは神様のご褒美だよ。今のあなただから子どもたちに伝えられる事がある」と、背中を押してくれて一歩を踏み出すことができました。
辛い時は弱虫でもいい、誰かに「助けて」と言える事が何より大切です。その時は辛くて苦しくてもその想いは必ず人を強くする、そして自分の命は自分で守る経験を伝えたいと「命の授業」の準備を進めています。
今「第3の人生」のスタートライン、前を向いて笑顔で一歩一歩進んでいこうと思います。
◆本コラムは、with Heartプロジェクトで開催したライティング講座を受講された方のコラムです
<この記事を書いた人>
当事者メンバー 柴田 富美子